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タイトル
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続いて
 

高次の境界での座は誠実な勤勉さ マスターの恩寵 神の慈悲で確保される 第16回

要約
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仏陀は豚の民の足も 食べたと言われています 彼は決して食べなかった 彼は動物の民の肉を 食べる者は彼の弟子では ないとさえ言いました それをご存知ですね でも最近は人々はそれを 気にしなくなっています 最初 仏陀は 何も知らないまま入って 来た人たちのために それを許可しました そこで仏陀は言いました 「動物の民の肉を 食べねばならないなら カルマの少ない肉 カルマのない肉 例えば 路上で既に死んでいる 又は自然死したような 肉を食べなさい 又は誰かが殺し だが 貴方個人のためでなく 彼らが殺された時 動物の民の叫び声が 聞こえない肉を」 でもこれは最初の時 だけのことでした[…]

なぜなら 当時 仏陀は 木の下 木の中に住んで いたからですー 空洞のある木もあります 菩提樹の様な大きな木で その木の幹は家ほどか それ以上の大きさで 根元近くに 空洞がありました 成長の過程でそれらが 分離すると 仏陀は以前の 多くの僧のように それらの空洞のうちの 1つに座りました 今でもそうするか 洞窟か 何かに座る人もいます それで 人々は 仏陀に会いに来ました 彼らはビーガンになる 事が必須だと理解して いなかったので市場に行き 食べ物を買って食べた後 再び仏陀に会いに戻って 来る必要がありました 仏陀には家も台所も 何もありませんでした 彼は托鉢に出かけました それで これらの新人は 僧侶の新人であっても 来ては行き 来ては行って食べました

彼らが動物の民の肉を 食べたと仏陀が知ったらー 彼らはそうせざるを得ず 菜食とは何か ビーガン とは何か どこで買えるか 知らなかったからです; 動物の民の肉を食べざるを 得なかったー仏陀は 寛大にならざるを得ず 「食べねばならないなら あれこれの肉を食べなさい でないとカルマが重すぎる」 と助言しました それで その様にしました でも後に 仏陀は 「あなた方はもう成長して 既に真理 ダルマを 知っています もう肉を食べてはいけない 肉を食べる者は 私の弟子ではない これで分りましたね

後に仏陀は道場 自分の部屋を 持ちました 「香りの部屋」と呼ばれ 仏陀のための部屋で 僧のための部屋が 他にも沢山ありました しかし 時々足りなく なったのは 他の僧が 戻って来たからです 老僧とか他の宗派からの 訪問僧です それで 部屋が不足しました すると仏陀の息子ラーフラ ですらトイレ付近で 眠らねばなりませんでした こうして 仏陀は謙虚に どんな状況も受け入れる よう自分を鍛えました 仏陀の息子でさえ 王子もー勿論 彼は王子 でした…トイレ付近で 眠らねばならなかった

大阿難尊者が その全てを 記録した経典があります 勿論 多くの経典に対し 彼に感謝すべきです これらの真の物語 仏陀の真のダルマの 教えの全てを 私達の為に 記録した 仏陀の保護下の 他の多くの僧に 感謝すべきです 多くの経典は失われるか 破壊されています 勿論 仏陀の涅槃後 多くの僧侶が結集し 全ての物語と 仏陀の教えを全て 収集して それぞれ カテゴリー別に まとめました また 学びたい人も多く 写しを作りに来ました しかしイスラム教徒や 他の侵略者が来て 勿論 彼らを殺し 寺院を破壊し沢山の 沢山の経典を焼きました

しかし 一部がまだ 残っているのは 他国や 他の侵略されなかった 地域に持ち出す 人がいたからです こうして 私達には今も 多くの経典があり 仏陀の 教えがどんなものか学び 知る事ができ それに従い 仏陀の良き高貴な弟子で あろうと努められるのです 仏陀の教え全体が 当時 全てそのまま一国に来た わけではなく 一部の僧は 持って行けるものは 何でも持って逃げ 自分の命を守るために隠れ 経典を守らなければ ならなかったからです

だから ある国には 他国より多くの 経典があり ある国には他国とは違う 経典があるのです だから ある者は修行し それを大乗仏教と呼びます 残存してインド等から 伝えられた主要な経典の 教えに彼らは従いました 玄奘はーインドに行き 幾つかの経典を 持ち帰るか そこで翻訳 して中国に持ち帰った 偉大なマスターです そして そこから他の 多くの国に広がりました

しかし 他の違う国々に 行った僧たちもいます 僧たちが行くのは 行ける所 自分が属する 国だったからで その後 例えば インドにいる 他の僧侶から経典を 取り戻しに来たのです 従って 何であれ彼らが 得た物が得た物で それに従って修行しました だから 僧侶の宗派の 幾つかは仏陀の最初の 教えに従いました 従って 彼らはそれを 「本来の」仏教の教えと呼び 仏陀はまだ一部の者に 動物の民の肉を食べる 事を許していました 三種類で…それを「浄化 された肉」と呼んでいます 前に言ったようにー 動物の民は自然死で 誰も殺していません 又は 動物の民の肉を 食べねばならない場合ー その動物の民が貴方の 為に特別に個人的に 殺されるのでないなら 食べることができます しかし 勿論 彼らは 仏陀が彼らに教えた 沢山のマントラ 沢山の 浄化の言葉を唱えました 彼らはもう心の中で そうすべきでないと 知っていましたが まだ 学んでいる間は一時的に そうしただけです

昔は 他の国 他の省 他の郡から来て 仏陀がいた町や都市の 周辺での生活や習わしに 慣れていない 者達にはビーガン食品を 買いに行くのは おそらく簡単では なかったのでしょう だから彼らは言いました 定住して仏陀と 学ぶまで 又は そこに 留まるまで 一時的に 何でも食べられるものを 食べ 人々が与えるものを 食べるように それで 全てを知るだろうと だから それは元々初期に 仏陀が容認した事です だから 例えば 当時 インドに近い別の国 ビルマ カンボジア タイなどから来た人々は インドの老僧から 初期の聖典や経典を入手 したのかもしれません 彼らはそれを持ち帰り 他の経典を持って行く 時間がなかったか 彼らのいた所では手に 入らなかったのでしょう だから持って行ける物を 何でも持って行ったのです 昔は 飛行機がなく 大型ヨットもなく 沢山の物を運ぶ車や トラックもありません だから想像して 僧が… 牛車か何かを借りられた かもしれません でもどこでも可能ではなく だから 車もバスも 何もない地域では 路上を 自力で経典を 運ばねばならないと 考えねばなりませんでした

例えば 私が登った ヒマラヤでは多くの地域で 常に歩いていました 一度だけバスで 登ったのは 既に 町の近くにいて バスがあったからです 誰かがバスを借りて 同行させてくれました それだけです; ヒマラヤで その一回だけです 勿論 その後 家に帰る ために町に降りた時は 馬車などがありました

でも私が歩いていた ヒマラヤにはー何もなく 毎日ただ歩いていました 靴は濡れて 足は浮腫んでいました 私はパンジャブ風の服を 2着しか持っていません でしたー勿論 ズボンと 長い丈のチュニックで 体を膝まで 又は 膝下まで覆う もっと品位がある 装いでした 昔は男性も女性もそれを 着ていました でも車はなし 常に濡れた服と靴を身に 着け 足は浮腫んでいました でも神を愛していました 私は何も恐れず 何も気にしませんでした 何も 全く 考えませんでした 考え 比較し もっと良い 物を望みもせずー何も

お金もあまり 持っていませんでした 長持ちさせる必要があった ので荷物を運ぶ人すら 雇えませんでした だから 服だけ運びました プルオーバーを1枚ー それしかなかったので 必要かと思いましたー それとパンジャビ パジャマ風のを一着 雨から守るために 寝袋の中に 私が着るものだけです 他には何も持てません そしてチャパティを焼き 同時にお茶も淹れるお皿 小さなアルミのカップと スプーンも後で売らねば なりませんでした ヒマラヤの高地に 登っていると何もかも 重すぎるのです プルオーバーを着る 必要はなかったです 私は歩き続けていて 濡れていた時も 暖かかったからです 何とか神が守って下さり ー乾いているべき場所は 乾いていました いつも濡れた場所を 歩いていたので 足だけが濡れていました 雪が融けるとグチャ グチャで泥だらけになり いつも湿っていました でも私にはどうしようも ありませんでした そのスポーツシューズ 一足しかなかったのです その後 靴下を失いました

靴下二足さえ 持っていませんでした 洗って履かねばなりません でも乾きませんでした 巡礼地で提供される 焚火の近くの場所を 借りられるお金を持って いなかったからです そんな避難所に早く 行かねばなりません でないと暗闇に 路上に ジャングルに 山に 取り残されます ヒマラヤでは 頼める人は誰もいません 隣人も何も あちこちに 互いに 遠く離れて建てられた 簡素な泥の家があるだけ 巡礼者に必要となった 場合に備えています ともかく巡礼者はみな お金を持っています 彼らはお金を払い 私は彼らの後ろに立って 靴下を空中に掲げました ー立っていた人々の 集団の後ろでー 焚火の正面ではなく

でも気分が悪かったり 寒くはなかったです 乾いていれば 履いたでしょう 濡れていても 履いたでしょう ともかく 翌朝には去らなければ ならないからです あの避難所に一人で いることはできません 許されてもいません 貴方は立ち去り 別の グループが来ます あまり何も知りませんでした 人々が行けば私も行きました 時々 彼らは違う道を 行き とても早く歩くので 私は一人で歩かねば なりませんでした 私は棒を手に一人でした そして寝袋は雨が 浸み込んでどんどん 重くなりました また 道も険しくて 私は登っていました でも幸せでした 何もあまり 考えませんでした

Photo Caption: 感謝を込めて 太陽に向かって踊る

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